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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 春の空 5

春の空4のつづき…。

春の空 5

これらは心にとどめたいと言う発露として書いた。今まで書けなかったものを思いとして書いた。

新聞紙いらない

 新聞を取らなくなってもう三年が過ぎようとしている。取らなくてもなんの差し障りも起きないし感じなくなっている。最初の頃はテレビ番組がわからなくて困ったが今ではテレビのリモコンボタンを押すと出てくるのでなんの不自由もしていない。買いものをするときに便利なチラシもパソコンで見られる。新聞紙は純パルプを使っているので資源の節約におおいに役立つことになる。世の中の動きはテレビとパソコンで充分に知ることが出来る。いのまの世の中で各新聞社の発行部数が減るのは当然と言える。長く続いている景気低迷で広告収入も激減しているしから経営も大変だろう。各家庭では新聞代も馬鹿にならないと言うことで経費削減になる。
 新聞を取っていたときには年払いの前払いで八ヶ月分の新聞代を払って取っていた。勧誘員がきて勧めるがなんやかんや言っているとあれもこれもと品物を付けたり値段を割り引いたり、最後には、
「前払いの年払いで四ヶ月分サービスしますよってどうや」
 少しやくざかかった勧誘員がすごみをきかせた。そのすごみに負けたわけではないがおつきあいで取った。まあ新聞の勧誘員というのが怖い人たちが多くてさっぱりと断らなくてはいつまでも帰らないのだ。それもそのはず一紙勧誘すれば一万五千円の収入になるのだと聞いたから納得した。どんな勧誘員よりも率は良いのだ。中には何紙もの勧誘をしている人たちもいた。
 今、新聞の使命を忘れている新聞が多い。新聞が政治を変え、流行をつくり、命まで左右しだしたことは怖い時代になっていると思う。足で原稿を書くのではなく記者クラブに広報担当からネタがばらまかれそれを記事にするという楽な取材をしているから勉強をしない記者が目立つ。昔は三ヶ月間飲み歩き三ヶ月間岩波新書を全部読み砕いたという記者もいたのだ。どこの新聞も紙面の大きさは異なるが同じ事をのせているのだ。記者クラブは地方では県庁、市役所、警察署、駅などに置かれ新聞記者が暇をもて余してあくびばかりしているところが多い。友達が詰めていた大阪南の曾根崎警察の記者クラブの壁には天井まで缶ビールの詰まった箱が重ねられ覆っていた。企業からの付け届けなのだと言うことだった。記者は忘年会には招待されおみやげを貰って帰るのだった。
 昔、警視庁の記者クラブを舞台に「事件記者」という番組がテレビで放映とされていたが、今は特ダネのすっぱ抜きという様な記事はない。特オチと言って記事を落とすようなことでもあれば記者は始末書ものだった。また、署名記事というものも少なくなっている。書いた記事に名前を入れ記者個人が責任をもつというもので署名記事を書いて一人前の記者と呼ばれたものだ。
 今はどうか自分の記事に全く責任を持たず一方的に垂れ流すだけの新聞に愛想を尽かす読者が増えるのも当然というものだろう。  
 若かった頃は記者の友達が多くいたので各紙の新聞を取っていた。
記者にもいろいろなタイプがいて人間観察の上で勉強ををさせてもらったものだ。記者は囲碁と将棋と麻雀の腕はたいした物だった。それは暇なときに常にやっていたからだ。事件が起こると社旗を風になびかせて現場へ急行するのだが何時も最後はNHKの記者が乗ったタクシーだった。
 昔から言われていることだが、新聞記者と警官はつぶしがきかないと言うことだ。権力を持っていた時の事が忘れられず頑固で妥協をせず攻撃的になって人間関係が作れないと言うことらしい。私とつきあった記者も向こう行きが強く個性的であった。怖いものは何一つない様な振る舞いをしていた。ペンは剣より強と言う言葉を彼らを見て思いおそれを感じたこともあった。が、記者を友達に持つことはメリットもあった。いざというときに記者を連れて行けば解決することが多かったからだ。彼たちは特権階級であった。
 高度成長の波を巧みに乗り切って成長した新聞というメディアはここらで裏取引のない真実の報道をしなくてはならないだろう。それが消えずに残る報道のつとめなのではないだろうか。
 今の新聞紙はなくても良いが、必要としないが、昔あった宮武外骨が出していた「滑稽新聞」なら喜んで読んでみたいと思うのだが。
彼は世の中をなめまくり政府を愚弄し天皇を諳んじた。反骨精神はますます旺盛でそれ故に常に獄中に繋がれていて本を読みかつ書いたのだがそれは半端な量ではなかった。ここには書かないがいろいろな新聞雑誌を発行している。その書いた量は今の流行作家など足下にも及ばない。庶民から喝采を受け指示され獄を出入りしながらも新しい雑誌を出し続けられたのも大衆の支えがあったからだろう。
 今の新聞にそれはあるのか、殆どの読者はテレビ番組のページしか見ないのだ。あとは折り込みのチラシ、チラシが欲しいから新聞を取っているという人の声を沢山聞いた。新聞は自然環境を問うならまず配達先もない残部を知るべきであろう。それらは貴重な森林資源なのである。そのことをまず問わなくてはならない。 
 その中で新聞かみのランク付けをしている。一番上等な尻拭きに適したものは朝日新聞であると論じている。昔の人ならううんと納得する人が多いだろう。
 宮武外骨は平賀源内とともに讃岐が生んだ希代の天才であり奇人であることはここに改めて書くこと

 たばこをやめよう

 買い置きがなくなったらきっぱりと煙草をやめようと考えている。
 かかりつけのお医者さんにそのことを告げると当医院ではそれができないと言う。医院なら何処でもその治療が出来るものと思っていたのだがそれは間違っていた。色々と制約があるという。健康保険で治療が出来ると言うことは厚生労働省の管轄になっているのだ。
国民の健康の為に煙草の値段を上げて禁煙を幇助したいと言った大馬鹿の鳩山は今は平の議員に成り下がっているが、そこまで考えてくれるのなら何処の医院でも禁煙診療が出来ると言うとこまでやって欲しかった。
「佐藤外科を紹介しますからそこで頑張ってください」
「なにぶん禁煙は薬より本人の決意と根性ですから」とも言った。
 煙草を吸い始めたのは比較的遅かった。遠い記憶をたどれば、遅くて幼い恋をしてどちらも事情があって別れたときからであった。ピースを吸って咽せた。セブンスターをふかし、富士を指で挟み、ショートホープを気取って吸って、蘭、チェリー、キャビン、ラーク、ベベルと色々吸い、今はキャビン100を吸っている。煙草が美味しいと思ったことが一度もない。
 物を書くときについつい煙草に火を点けてしまう。酷い時には灰皿に何本も煙る煙草があるくらいだ。煙草を吸ったからと言っても良い考えが浮かぶと言うことはない。が、何か落ち着くことが出来るような感覚になるのだ。
「煙草依存症、つまりニコチン中毒ですな」
「あなたは煙草を吸って満足でしょうが、そばにいる人には大変に迷惑なことなのです。分煙と言ってその人も煙草を吸っているのと同じなのですから」
「自己責任で煙草を吸って心筋梗塞、脳梗塞、肺ガン、あらゆる病気の元で逝くのは一向にかまいませんが、ご自身より他の人まで巻き込んではいけませんから、人の中で吸いたくなったら外に出て吸ってください。それくらいのマナーはもってください」
「お孫さんがいるのですからこれを機会に禁煙を・・・」
 孫という言葉には弱かった。
 孫達がくる足音がすると煙草の火を消して窓を開けた。空気清浄機を備えた。何度も禁煙をしようと思った。が、意志が弱いので出来なかった。
 鼻血が止まらなくて生まれて初めて八日間入院したときには禁煙が出来た。そのときはすいたなかったのだ。吸えなかったという方が適当か。八日間我慢が出来たのだから出来なくはないと思ったのだが・・・。あの時にやめておれば今の苦労はしなくて良いのだが。なにも百十円値上がりをしたからと言って周章てなくても良いのだが。
 今ではどうなっているのだろうか、鬱で川崎医大の心療内科へ診察に行っていたとき待合いは患者の煙草の煙でもうもうとしていたのだが。みんなボーとしてうつろな瞳を浮遊させながら無意識に吸っているのだった。一人診察室に入れば一時間はかかるので長い待ち時間で何本も煙にしていた。鬱の患者に取って煙草は一種の安定剤の効果があったから医師は煙草をやめよとは言わなかった。好きなようにさせていたのだ。鬱の患者の楽しみと言えば煙草くらいだったと言うこともあったろう。
「そろそろ禁煙したらどうです」と耳鼻科の先生が言う。
「先生は診察机に灰皿を置き吸っていたのはいつまでですか」
「あれは・・・もう二十年も前になりますよ」老先生はそう言った。ばつが悪そうだった。診察机の上に医師が灰皿を置いていたという事実を突きつけられたからだ。
 かかりつけの大先生は院長の息子さんと奥さんに禁煙をさせられているが煙草が好きでやめられないらしい。患者から、
「大先生、一本どうです」と勧められると笑顔になり貰ってそそくさと自室へはいるのだ。
 悪いと一番に分かっている医師がやめられないのだから遊び人などやめられるはずがない。
 煙草の賞味期限を考慮して三百三十個の買い置きをした。値上がり分で買ったとすると三万五千六百の得をした勘定になるのだ。百万円定期にしても年に一千二百円ほどなのだから三千万円の定期をして利息を得た勘定になるのか。
 その買い置きを吸い終わったら禁煙をすると家人に宣言をしている。今から唇の寂しさを忘れるためにガムを噛んでいるのだがそれが効果的なのかどうか分からないが。


 読書をしよう

 読書の秋だから読書というのもなんだがこの気候のいいのに読書などするのは勿体ないとも思う。外に出て晴れて澄んだ空の下で大いに体を動かした方がいいに決まっている。それなのに読書の秋などと言うのはおかしいのではなかろうか。今年は気候変動で夏が頗る暑かったものだからなかなか眠られずついつい本を読んでしまうと言うことをした。辻邦生さんに始まり南木佳士さんの殆どの作品を読んだのだ。だから秋に読書と言われても適当な本に巡り会わない。若かった頃は本屋を覗き読みたいよりつんどく為に片っ端から有り金をはたいて買ったものだが、今は本屋を覗くこともなくなっている。孫に何か良い本はないものかと思い覗いたくらいである。もっぱらインターネットの通販で買っているのだ。何処も送料無料というのが良い、無料と書いてあればついつい買ってしまう貧乏性は同じものを二冊三冊も買ったりするので困ったものだが。
 宮武外骨の滑稽新聞の本を買って読んで積んでいたのを探してがみたが見あたらない。本の中に隠れてしまっているらしい。たまたま外骨を読んで書いてみたいと思い探したのだ。なければ買うかと思いアマゾン、楽天と探して驚いた。昔買って積んでいた本が途方もなく値上がりをしているのだ。もう一度沢山の本をひっくり返して掘り出せば値上がり分だけの儲けと言うことになる。が、いかんせんそそっかしくて横着者でその手間を掛けられるほど大きな男ではないときている。買いたいと思ったら買って置くものだとつくづく思う。昔の書斎には何処の段に何がありあれはその二段下にあると覚えていたのだが、二十畳の書斎を次男夫婦の部屋にリフォームをしたときに最初丁寧に選別をし捨てていたのだが最後の方は全部捨ててしまうと言う横着をしたのが悪かったのかいる本がどんなに探しても見つからないのだ。捨てた大半の者は若い頃読んでかみ砕いたもで捨てても惜しくはないが探して見つけたい本もあったのだと気づいている。今、六畳の間を書斎にしているのだが壁一面に無造作に積んでいるだけである。机の上にはパソコンが二台おいてある。使っていないので物置同然に色々の物を置く空間に変貌しようとしている。今は家人の部屋の片隅を借りて一日中パソコンにむかい遊んでいるのである。
 本を読むときにこの作者は命と引き替えに書いていると思うとなおざりには読めない。私がそうであったようにひと文字幾らの値が付くと文章なんか書けるものではないのだ。書いている間中命を縮めていた。緊張感とプレッシャーでストレスがたまり生きた心地がしなく堅い文章になってしまうのには困ったものだった。私の様に小心でなく剛毛が覆う心臓の持ち主ばかりなら良いが鬱を抱えた南木佳士さんのような作家の本は真摯に読まなくては申し訳ないと丁寧に読んだ。あれだけ沢山の物を書いた南木佳士さんの心臓には強靱で太い血管が心拍しているのに違いない。だがそのような人でも鬱になるのだから鬱という病気はこれからの人たちが寄り添って生きる物なのかも知れない。私の場合、読んでくれたらこっちのもの、書いたらやけと道連れで原稿を渡すという神経ならば気楽であったろうと思うのだが出しても気になって何度も読み返し書くのではなかったと後悔を深くして尚ストレスを抱え込んだものだった。
 今は原稿料を貰って書いているわけではないので気楽に愉しく遊べるのだ。この方が精神衛生上頗る健康であることは言うまでもない。これは決して注文が来ない負け惜しみではなく忙しかった東京の生活を捨てたときに感じた同じ心の動きなのである。
 世に沢山の書き物の好きな人がいるが金に縛られて書くことは健康に良くないと思う。金に縛られて書いた物は余裕がないから読者に満足を与えられないと言うことになりかねないのだ。まあ、そんなことは平気なのだヘッチラヨと言う方はプロになられベストセラーを産めばいいと思う。
 私は楽しんで物を書きたい。人の為ではなく自分のために書きたい。このような物が読みたいが誰も書いてくれないのでそれでは書こうかという物を書き読んでみたいと思っている。
 本との出会い、これは愛する人との出会いとよく似ていると思う。良い本は一生物なのだ。いい人との出会いも一生物なのだ。飽きが来ない本も人もそういう出会いを作らなくてはならない。それには沢山の本に接することであり、多くの人との出会いをなす事であろう。
 今私のパソコンの隣には南木佳士さんの「医者という仕事」という随筆の本が置かれてある。
 貧しさ故に菊池寛さんのリアリズムの生き方を学んだが、「生活が第一でそれから文学だ」というものだが。家庭の生活が順当でなくて何が文学だという彼の哲学の信仰者であったが晩年の菊池寛さんの生き方を知るにつけそこから離れ辻邦生さんの「西行花伝」「銀杏ちりやまず」に心酔し南木佳士さんの優しい真実に心奪われているのだ。
 読書の秋に読書をしないのはすがすがしい秋の空気を胸一杯に吸い込んで見たいから。このような気持ちになれたのも秋ではないが読書のおかげであると思っているが。

 文化講演会

 最近は文化、文芸講演会の開催の情報を得ることはなくなった。昔のベストセラー作家は売り出し中の演歌歌手の様に全国を駆け回っていたものだ。それは本を売るためばりではなく国民の意識を高める上で効果的であった。今はそれをしないのは作家がテレビに出て半端なコメンテーターをしてお茶を濁しているせいか。それでは読者の心はつかめないだろうし読者のこんなものが読みたいという要求をつかめるはずもない。時代だと言ってしまえば終わりだが新人賞や直木、芥川賞を取った作家の本が売れないと言うのも納得がいく。書き手の必然が読者の必然と相い照らす事が出来なくなっているから売れないのは当たり前という物だ。作家では飯が食えないという時代であるが作家になりたがっている作家予備軍は多い。昔の様に文芸同人誌が多くなく減っているからそこで勉強をすることは出来なくなってブログに書いたり懸賞に応募するくらいになっている。満のいい人はブログに書いた小説が良い編集者に巡り会い芥川賞を取るという希有な人もいるがそれはあくまで希もので砂の中に金を見つけるより難しく殆どそういう恵まれた人はいないのが現実だ。百万円近く出して自主出版をする人も多いのだが出版界不況の中で良い商売になっていると言うことはそれだけ書いたものを本にしたいと言う希望があるからだろう。そのような人もプロの道は険しく殆どの人はプロにはなれない。プロでも注文の来ない作家がごろごろしているのだ。その人達はゴーストライターをして飯を食べている人が多い。林真理子は作家になる前に松田聖子のゴーストライターをしていたことは有名である。また、売れなくなると必ず「創作の仕方」「文章講座」などを書いて売れれば儲けだがそれより書き手が創作の原点に返るために書くことが多いようだ。書いた人で再起した人は殆どいないのはそれが徒労であると言う査証であろうか。
 若かった頃、半年に一度はくる講演会に良く話を聞きに行ったものだ。皆な正装して拝聴していたのだ。インテリーの集まりの様に上品なのだが聞く作法を知らない。笑うところを笑わず手をたたくところでたたかない。さぞやりにくかったろう。開高健、曾野綾子、大江健三郎。井上光晴、野間宏、松本清張、水上勉、五木寛之、まだ沢山の作家や文化人の話を聞いたが、大江健三郎さんは我が子の話とほんの宣伝に終始し井上光晴さんは共産党をどんな経緯でいかにして離党したかを話した。殆どの作家は自作の本の宣伝が目的であり物見遊山もかねていろう。連載を沢山抱えていても地方に公演旅行をする余裕があったのだ。それだけでも今の作家とは違うと言える。その頃はまだファクスもなく出先で書いた原稿補を電話で読み上げて編集者が記述するというものと編集記者が原稿取りに行くという方法しかなかった。
 心に残っていると言えば五木寛之さんと水上勉さんがある。
 五木寛之さんは大学時代からテレビ創生期のの放送作家でありシベリア鉄道で北欧への旅をした。地中海沿岸の
國にはあまり興味がなかったらしい。そこで国々を見て回り人にふれ歴史と文化を学び取った。後に「ソフィアの秋」「さらばモスクワ愚連隊」「蒼ざめた馬を見よ」「ガウディの夏」「ワルシャワの燕たち」などの作品を書く土壌を培った。直木賞を貰ったときに賞と同質の作品が五十作書きためて手元にあったという。みんな受賞をしても次作が書けないというのに五木さんは何年か分の作品を書いていたのだ。会場に集まった文学青年達からどよめきが起きた物だった。五木さんの自信に満ちた凜とした姿は忘れられない。それが「青春の門」に繋がった。還暦を迎えて大学に入り「浄土真宗」を学び新しい五木さんの活躍の場を広げている。それは計算された生き方でなくその都度何かを真剣に研究しなくては居られない五木さんの言ってみれば使命というべきものかも知れない。
 水上勉さんは白い顔にかかる髪の毛をかき上げかき上げ少し激情して話をした。まだ「雁の寺」を書いて直木賞を貰う前のことだった。熊本の水俣で猫が飛び回っていると言う話を聞いた。水上さんは水俣へ飛んだ。そこには本当に飛び跳ねる沢山の猫たちがいた。何かの原因で、この有明の海で何か大変なことが起きている・・・猫にこのような症状が出ていると言うことはやがて人間にも・・・不安と怒りの中「海の牙」と言う推理小説を書き上げた。その話の間中涙を流し髪をかき上げ体を震わせて訴える様に語った。それは作家ではなく一人の人間の真実を露呈していた。
 今、この二人の作家は私の心に大きな位置を確立している。沢山の公演を聞いたけれど二人の話が聞けたと言うことが何よりの果報であると思っている。
 果たして今の作家にそのような怒りの軌道があるのか、人間を蹂躙する物に対して果敢と戦う姿勢はあるのか。注文が来ない、本が売れない・・・それは当たり前というものなのだ。大衆の心が分からなくて書いていて売れるはずもない。代議士と同じなのである。幸せというものに、生き甲斐という物に、夢という物になんの答えを持たずに明かりを与えない作家が書いて売れるはずもなかろう。怒りを忘れている作家にはもう一度土と戦って欲しいと思う。土が生み出す力こそ今人間が学ばなくてはならぬ物のような気がする。
今、信州は佐久平の病院医師南木佳士さんの随筆小説に親しんでいるが読むと沢山の答えを返してくれる。歳のせいか読んで薬になる物を好むようである。
 生きとし生けるものことごとくみんな平等に逝くと言う安心感を根底において優しさと真実をつづる作家である。

 最近眠られない

 寝るのは朝の五時である。年寄りは早起きだというのは私には当てはまらないらしい。五時頃「ジーンズ剛さん」がブログを更新するがそれを読んでから安定剤のデパスを一錠飲んで床にはいる。何をそんなに遅くまで深夜勤務をしているのかと問われればなにもしていないのだ。映画を見たり本を読んだりブログの随筆を書いたり、これから書こうとしている長編小説「水島灘物語」の資料集めや構想を練っているのだ。頭を使っているとやたら煙草の本数が増える。お腹がすくので間食をする。体に良いことは一つもない。これは鬱の名残なのだと思っている。私の人生は鬱の頃から昼と夜が逆転しているのだ。鬱は夜は眠ることが出来なくて昼には眠られるという癖がある。夜にはみんなが眠っていて自分だけが眠られないと言うことが不安なのだ。昼には誰かが起きているから安心して眠ることが出来るのだ。昼寝ていると言ってもうとうとしているだけなのだ。夜眠られないからボーとした頭で沢山の台本を書いた。ぼんやりとした頭で本も読んだ。映画も見たが殆ど頭の中を通り過ぎている。台本はどうにか公演できたからいくらで良かったのかも知れない。多分に降臨のおかげである。
 私は常に鉢巻きをしている。タオルを巻いているのだがその中にケーキ屋さんでくるれる保冷剤を冷凍庫に入れて凍らせた物を入れている。常に頭が熱いからで冷たくなくなったらボーとするのだ。筋収縮性頭痛の場合は冷やしたら駄目なのだが私の場合は冷やさなくてはなにも出来ないし涼しくなってもクーラーのお世話にならなくては体が熱くていらいらするのだ。これも鬱の後遺症なのかも知れないと思っているが真意は分からない。その所為か寝るときにも布団を掛けて眠ることはしない。これは奇病かも知れないが・・・。
 五時に寝ても十一時頃には目が覚めてしまう。熟睡することなくうとうとし夢ばかり見ているのだ。穏やかな夢なら良いのだが恐怖に震える物が多い。これも・・・と決めつけると鬱に悪い気がするのだが。
 朝が白々とやってくると体が眠りを求めてくる。そんな体質になってしまっているのだ。私の知り合いは午前中には電話をかけてくる人はいない。私の生活を知っているからで知らない人からたまに電話がかかってくるが。この前、新聞の取材で女性記者から午前十時頃電話がかかってきた。国民文化祭の出し物についての物でどんな芝居であるかを知りたいという。練習風景をカメラに収め作者の説明が欲しいと言った。午前中はきわめて機嫌が悪い。
「何を見て取材の電話をかけているのでしょう」と問うと、
「国文祭の演劇のチラシを見てお願いしているのです」
「チラシには役者が一人と書いてあるでしょう」
「はい。ああ・・・そうですね一人芝居なのですね」
「それが分かれば役者と演出の格闘なんかを取材しても面白くはないですよ」
 機嫌が悪かったと言うことと無知な記者に対して取材を拒否したのだ。今の新聞記者の質は確かに落ちている。記者クラブにのほほんと座っていて記事を貰っているのだから特ダネという物もないし署名入りの記事も書いたことがないだろう。盆暮れの付け届けの高く積まれたビール箱前で囲碁か将棋を指したりテレビを見ている記者を思った。
 その日も世の中について考えていて眠られなかった。少し前は鳩山の不定見を嘆き、小沢の金の問題で腹を立て、いら菅の節操のなさにあきれ、円高を憂い、尖閣の問題には激怒し、夏の記録的な暑さと相まって眠られぬ日が続いたのだ。
 眠られないからと言って痩せているのではない。人より余分に肉が付いている方だ。夏やせという言葉は当てはまらない。秋、食欲は旺盛である。体重のことは考えないようにしているのだ。太っているのは鬱の時のままなのだ。ダイエットをして十三キロ落としたが直ぐに元に戻った。その経験からいつでも落とせる自信が付いている。
 起きているときの夢がだんだんしぼんできたから、寝ている時に夢を見るのだろうか。夢は潜在的なものだと言うがどうか。
 今宵はどうか・・・良い夢が見られますように・・・。
「睡眠不足ですか、そんなに太っていればメタボのようですがさぞ糖尿が手招きをしているでしょう。うん、そのけは全くないと、なに毎日珈琲を十杯飲んでいるから大丈夫だと、そんな臨床所見はありません。・・・。あなたは元々起きているときにボーとしていて眠っているのですから睡眠不足になるはずはありません。これは特異体質とでも申しましょうか、良い特性をお持ち方だから、死ぬまで生きられますからご安心を」
 そのような夢を見た。それでまた色々と悩むことになるのだが・・・。


小説家は随筆を書くな

 小説家は随筆を書くなと言った小説家がいることを知ったのは小説家の南木佳士さんの随筆を読んだ時だった。その中で芥川賞受賞パーティーの席で開高健さんから言われたと書いている。何でも随筆一作で短編の材料を使うのはもったいないというような意味のことを言われて戒めたという。南木佳士さんは随筆を沢山書かれているが書いている時に常に開高健さんの言葉がよみがえってきて何か悪いことをしているという罪悪感に襲われたらしい。芥川賞の選考委員と言えば受賞者にとって雲の上の人、その人から声をかけられ将来を思い戒めの言葉を貰ったのだから分かるような気がする。南木佳士さんはそのことを何遍も書いているのは自分には医者として誰も書かけない小説を書く自信があることを小説のテーマーからも文章からも伺えるのだ。確かに随筆を書くときに少し突っ込んで書き進めれば短編になる物がある。開高健さん言いたかったのは小説家は本来小説を書く事を本業とし、随筆家は随筆を書くことで立つと言うことであったろう。
 南木佳士さんには今は克服したが鬱という病気持ちで短編長編となると神経が持たないという事で頼まれて短い随筆を書いているのだろう。
 南木佳士さんは大変なことを書いていた。彼が「文学界」に応募したとき一次も入らなかったが編集者から電話がかかり異質な世界の方で作品に光る物があり温かさを感じたので話を聞きたかったという物だったと。本来応募作品についてはお答えしないと言うのが定説なのだがこれは応募要項違反であるのだ。それが縁で編集者に作品の書き方を教わったという。文章や構成を学んだというのだ。「文学界」の新人賞を受賞したときにも応募する間際まで編集者と作品を推敲したと書いている。カンボジア難民救済医療団の一員として飛行場から出発する一時間前まで額をつきあわせて直したと言うことも書いている。これは真剣に作品を書き未来を夢見て応募する人たちにとって不幸なことである。編集者がその才を見抜き新人賞を取らせたと言っても過言ではないのだ。文芸春秋社の大いなる過失であり賞の価値はなくなる。私が応募した賞でも最終に残っていなかった作品が受賞した例はあるから何かの画策があったというほかない。選考に付いての問い合わせには応じられないとあるが、私が作品について聞きたいと電話をすると編集長さんが出て親切丁寧に答えてくれました。私はそこで問い合わせに応じられないという但し書きはみんなから問い合わせが来ているのだという意味なのだと感じた。この理解は正解であった。新人を発掘したい、偉大な作家を誕生させたい、希有な小説を世の中に出したいこれは編集者の仕事であるから時に型破りをするらしかった。
 世の文学青年や文学老年達が南木佳士さんの随筆を読んで文芸春秋社に抗議をしたというニースに出会っていないのでそんなことはなかったのだろう。この話はもう時効だからと南木佳士さんは書いたのかも知れない。
 徳のある人の人との邂逅は時に大きな花を咲かす事がある。そんな経緯があって南木佳士さんも今花を咲かしているのだ。
 信州の佐久平の七百床もある病院の勤務医である南木佳士さんは呼吸器の専門医として特に肺ガンの治療に携わり多くの患者を見送ったのだ。それが元でパニック症から鬱になられた。自己診断も出来ずに病院の精神医にかかり治療を始められた。その病床にあってこれでは駄目だ何かしなくてはこのままでは死ねないと小説を書き始めたという。育ちは山奥でなにもすることがないので父の本を取り足りして読んでいたらしい。彼は言う、芥川の小説で一番良いのは「秋」だと。子供の頃から今までその思いは変わらないらしい。芥川の「秋」を出すくらいの深い理解力それが元になっているらしい。呼吸器系の診察から外して貰い人間ドッグドクターとして勤務して快方に向かったという。それに加えてこのままでは死なぬと言う思いと書くという彼の使命が支えたのだろう。
 自宅から自転車で五分の通勤を続けておらせれると言う。
 信州佐久平の病院は医療研修医に評判が良く全国から来るという。                                                                                                                                                                         私のかかりつけの耳鼻科の医師に尋ねるとよく知っていた。
 今、勤務の傍ら日本百名山に登るという計画を立てるほどに恢復しておられる。山に生まれ山で育つた彼は人間の宿命とも言える生まれたところへ帰るという回帰本能が芽生えたというのでしょうか。
 小説家は随筆を書くなと言う開高健さんの言葉を今どのように感じておられるのか。彼の随筆を読むたびに思うのである。彼の随筆は読む薬として広く処方されている。読者の層は広く浮気をしないらしい。作者の優しさと真実が読む者に心地良い癒しを与えてくれる。心の持ちようでなんとでもなるものだと感じ取らせてくれる。
 彼は言う、どんな患者でも何処が悪くても奇跡が起こり治るのだと言う人が殆どだという。死なないと思っているという。が・・・。
 人間はどんなに金持ちでも貧しくても平等に死を迎えるのだと。
「あの憎たらしい奴が死なないのに俺が死ぬのは不公平だ」と言うことはないのだ。


歴史の空白が・・・。

 昔、良寛さんを書いて舞台へ上げたことがあります。一応資料は集め読み砕いたのですが何か判然としないもがあり「僧にあらず俗にあらず」の言葉通り普通の人間僧侶として書いたのです。曹洞宗の光照寺で国仙和尚に依って御受戒を受けて出家をしました。良寛さんは国仙和尚さんを一生の師匠として岡山は備中の僧堂円通寺にお供をしそこで僧侶の修行をするのです。円通寺での良寛さんのことはなにも残っておりません。何も残っていないと言うことはどのように嘘八百を書いても文句が出ないという事なので色々と考えを巡らせ創作をしたのです。そのように空白があると言うことは物書きにとって有り難いことで何でも書いて良いですよと良寛さんが言っている様に感じて書かしてていただきました。出雲崎では良寛さんは童貞であったという説があるのです。大庄屋の跡取りであった良寛さん庄屋見習いの時に嫁を貰って直ぐに離縁しているのです。一女があったという説もあります。が、立派なご僧侶がバツイチでは良寛様の名に傷を付けることを案じてか童貞であると言うことなのでしょう。円通寺の事と、新潟は長岡の閻魔堂の貞心尼との心の交流も嘘を積み重ねて書きました。これは貞心尼が良寛さんとのことを歌で詠んでいる「蓮の露」がありましたが中に創作をさせていただきました。
 このようにして歴史の空白があれば書き手は自由に書くことが出来るのです。
 西行法師さんも書かして貰いました。舞台で上演しました。西行さんと待賢門院璋子さんとのことは女房の待賢門院堀河の語りとして直接に西行法師さんを書かずに西行さんを書いたのです。待賢門院璋子さんは鳥羽帝の女院でした。堀河さんは小倉百人一首で有名な歌詠みです。璋子さんの幼い頃から亡くなるまで女房として仕え何もかも分かっていたとして璋子さんと西行さんとの恋を語らせたのです。西行さんは好色家と言えば西行さんのファンの女性の方に怒られるやも知れませんが大変にもてた方であったらしいのです。花と月は西行さんの歌のテーマのような物ですがそこに女を加えてました。恋の、人想う歌も多かったからです。西行さんがどうして鳥羽帝の北面の武士を捨ててなお得度したか、それには待賢門院璋子さんと一夜のちぎりをもちそれが一生に一度の恋に想え苦悩の末に絶望したことが原因であったと言う説を取り入れ、ものの哀れを感じたと言うことにしたのです。親友の突然の逝去故にという説もありましたがそれを採りませんでした。劇中の会話はすべて創作をしました。瀬戸内寂聴さんや辻邦生さんや白州正子さんにしかられる事でしょう。
 北面の武士佐藤義清、歌人西行法師、法名円位上人が西行さんなのです。平清盛さんは西行さんと鳥羽帝の同期の北面の武士であったのです。
 目が不自由だったが居合いの手練れがいた。という子母澤寛の短い文章で「座頭市」が別の作者の筆で生まれると同じようにと言う風にです。
 坂本龍馬さんも舞台にのせました。
「金のなか人間に何が出来よっとぜよ」金に執着した龍馬さんを作りました。大法螺吹きにしました。なぜか龍馬さんを書いているとき愉しくなかったのです。あまりに完璧な龍馬さんを皆さんが書いている事に対する反発がありました。
「日本の國を洗濯しちゅうきに」
 この龍馬さんの言葉はあまりにも有名ですが洗濯する為には金がいることに気づき金集めに奔走する龍馬さんにしました。金持ちに取り入るのがうまい人として書きました。高杉晋作さんは策士で、中岡慎太郎さんに龍馬さんはこういうのです。
「高杉は喰えん奴じゃきに気をつけーや。泣いて助けてくれーというても知らんきに」
 今、NHKで「龍馬伝」放送しているが、龍馬さんと岩崎弥太郎さんとは長崎で初めて会っているのにあんなに何もかも知っているのはおかしいのです。ここは中岡慎太郎さんが流れを作り進めるということのほうがよかったと思います。龍馬さんと中岡慎太郎さんは質屋の二階で惨殺される。その暗殺者を人斬り半次郎さん、示現流の居合いの達人に仕立てたのです。これは西郷吉之助さんの意であったとしたのです。薩摩は龍馬さんを殺さければならない怒りがあったとしました。司馬遼太郎さんにしかられそうです。
 龍馬さんを時の人として薩長連合、公武合体、大政奉還。
 誰かが仕組んだものではないかとしたのです。
 お竜さんは龍馬さん亡き後横浜の豪商と再婚しています。
「人とはなんと悲しいのでしょう」お竜さんはそういいきります。
 書き手は時代の空白を書く。一瞬を語るのだと思います。書いてしまえば書き手の手元から離れ一人歩きを始めるのです。
 良寛さん、お元気で子供達と手まり歌を歌いながら遊んでいますか・・・。
 西行さん、大仏復興の勧進帳を持っての旅どうでした・・・。
 龍馬さん、まっこと誰に殺されたじぇよ、ぎょうさんの説で学者も困っているきに・・・。

 もう懲りたので歴史の人物は書かないことにします。
 
 
 道場破り

 私たちの若かった頃には何処の県にも何団体かの文芸同人誌があった。全国で言えば千は下るまいと思う。そのすべてが「文学界」「文芸」の同人誌批評にいかに取り上げられるかを目指していた。私も同人誌を二つばかり作ってはつぶした。編集責任者をしていて同人の原稿を編集委員と読んで協議して掲載作を決めていた。朝日、毎日、読売新聞「同人誌批評」や「文学界」「文芸」の同人誌批評に毎回取り上げられるという同人誌に育っていた。レベルは高かったと思う。同人の何人かは地方の文学賞をものにしていた。懸賞応募も盛んであったが殆どの人が二次三次まで残っていた。
 そんなときに良く同人以外に原稿を持ち込んで読んでくれと言うことがしばしばあった。その人達を道場破りと呼んだ。
 持ってきた人の前で原稿をめくる。殆どが一枚目でがっかりした。
三枚も読めば作者の力量は読み取れた。そんな時に持ってきた人は私の目と手の動きに注視していたから格好だけでも真剣に読んでいる振りをするのだ。読みながら何か言わなくてはならぬ事にいらいらし疲労は全身に及ぶのだ。苦痛以外の何者でもないが前で真剣に見詰めているのでかわいそうになって読んでいく。三枚で作品の善し悪しは決まっているものを後何十枚も読まなくてはならぬ事は地獄以外の何ものでもない。
「どうか忌憚のない意見をいただきたい。どんな批評にも耐える自信はありますから」と言われても小説の態をなしていないものをなんと言えばいいか困ってしまう。ここから持ってきた人と私の心理的なやりとりをしなくてはならないのだ。本人は素晴らしい小説だと考えているのか、これを小説と言っていいのか、何処を直せば良いのか、どのように書けばいいのか、どれに迷って持ってきたのかを判断しなくてはならなくなるのだ。心の底を観察する。どのように本を読んでいる人なのかは読めばある程度分かるのだが、本を師匠としている場合読んだ作品、作者の癖が出るものだからだ。読み進んで行く中でどこか良いところはないかとスケベー心が生まれてくる。優しいいい人を演じようとするのだ。
 同人の場合には、特に掲載する作品にはとことんつきあい話し合い書き直しを要求するのだが、道場破りの彼らにそこまでする義理はないのだ。そんなとき私が何も分からずに原稿用紙にむかっていたときのことが頭をよぎるのだ。良い読み手がいてくれたのでどうにかこうにかやってこれたのだが、そのような人がいない彼らの良い読み手になってあげたいと言うのも資質の面から出来ないことが多い。つまり才能がないと言うことなのだ。努力して才能を芽生えさせると言う方法もあるが、文章はうまくても作品を誰に読ませたいか、何を伝えたいかというテーマがはっきりとしていないものが多かった。そんな人は多分に小学校の頃に作文が上手だと先生に褒められた人が多いのだ。作文がうまかったという人がプロの小説家になっている例はそんなに多くないのだ。
 私は前に資質と言う言葉を使ったがすべての人は物書きに成れると思っている。本を読み砕いてもそれを生活の場で実践しなくては書き手としての血肉にはならないのだ。宗教に例を取っても聖書や仏典を読んでも生活の中でそれらを使いこなせなければ聖人には成れないと同じである。そこに勘違いがあると思う。つまり読んだものを何時までも覚えているのでなく生活の中で生かさなくては、唯面白かった、良かった、感動した、では駄目なのだ。それを文学的生活と言う言葉でやりとりをしていた。実践すると言うことは感性、雅性を作り、社会のあらゆる常識道徳を取り込み、自分の生き様を作り上げるというものなのだ。そこまでくると知らず知らずに文章は書けるようになる、テーマも自ずと生まれる。つまり降臨なのである。
 そのような考えを巡らしながら読み進んでいくのだが何処にも目新しい表現には出会わなかった。良くある常套句の氾濫である。
「銭にも棒にも引っかかりません。駄作ですと言うより作品以前です。ものを書くのは諦めて何か外に興味を見つけられたらいかがでしょう」こんな言葉は絶体に言えない。
「大変だったでしょう」
「はい。寝ずに書きました」
「一日中書かれたようですね」原稿用紙だとペンにしても鉛筆にしても字の乱れが現れるもの、日を置くとそこから字は立ち上がってくるのでそう言った。
「それでどうでしょうか」顔を引っ付けるように前のめりで聞いてきた。
「この作品をどこかへ応募しようと思っておられるのですか」
「はい」
 言ってみれば殆どの文学青年はこの程度であった。
 身辺雑記のようなもの、このような恋愛をしたいという願望もの、今までこのように生きた事をを書いたもの、苦労話、戦記物、そのほか色々様々な原稿を読まされた。道場破りの一本勝負で。
「まあ、石の上にも十年と言います頑張ってください」三年を十年と言ってお帰りを願った。
 道場破りには負ける事にしていた。同人になって欲しい人とは巡り会わなかった。
 応募原稿を雑誌社の編集者が読まなくなったのは時間の無駄を省きたかったのではないか。一行三枚で判断して捨てる原稿が多すぎたのではあるまいか。今、応募原稿は下読みやが読んでいる世の中らになっている。
「売れる原稿を書いてください」
 私は若かった頃編集長にそう言われた。が、売れる原稿は書いたことがない。私にとっての必然しか書かなかった。
 今、ブログにはあらゆる分野の小説が氾濫しているが良いものを書く人に出会ったのは五名程なのである。
 一昨年、昔の同人誌仲間が「内田百けん文学賞」の随筆で受賞した。続けている仲間がいたことを喜んだものだ。
 
書くことが夢だとするとその夢を一生持って生きていくのも悪くないと思う歳になっている。


春の季節には心にたまっている事を暇にまかせて書きなぐって次ある挑戦を思考していた。
  
夏の空1に続く


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